理想

「その日に自分が為(や)るだけの務めをしてしまってから、適宜(いいほど)の労働(ほねおり)をして、湯に浴(はい)って、それから晩酌に一盃(いっぱい)飲(や)ると、同じ酒でも味が異(ちが)うようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするものは無いかも知れないナ。ハハハハハ。」
と快げに笑った主人の面からは実に幸福が溢(あふ)るるように見えた。
 膳の上にあるのは有触(ありふ)れた鯵(あじ)の塩焼だが、ただ穂蓼(ほたで)を置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人は箸(はし)を下(くだ)して後、再び猪口を取り上げた。
「アア、酒も好い、下物(さかな)も好い、お酌はお前だし、天下泰平という訳だな。アハハハハ。だがご馳走はこれっきりかナ。」
「オホホ、厭(いや)ですネエ、お戯謔(ふざけ)なすっては。今鴫焼(しぎやき)を拵(こしら)えてあげます。」


幸田露伴「太郎坊」 あおぞら文庫より引用