報道の自由を守り抜くための取材上の倫理 思うところ

去年7月に書かれた文書。文字数制限もあり、んんん?って感じ。
わかる人にはわかる引用あり。


 映画「戦場のフォトグラファー」は衝撃的だった。コソボでナクトウェイは「これらの写真が撮れたのは、カメラを向けた人たちから私が受け入れられたからだ」と語る。信頼こそが取材においてもっとも重要なファクターだ。
 ただ取材上の倫理が働かなかったのが最近ではTBSの朝ズバッ!による香川県坂出市の事件の報道だ。殺された姉妹の父親山下清さんを犯人扱いする言動があった。これでは2ちゃんねるによるニュースへの見解となんら変わらないだろう。こういったなんらかの決め付けを行った上での取材というのはレンズを曇らせ、ナクトウェイのように生々しい事実を映すことはできない。
 信頼は第一だ。しかし信頼だけではダメだと私は思う。私は、新聞などメディア関係者は「自分たちは特別である」みたいな意識を持っているのではないかという印象を持ち、私たちからすれば「アッチ側」の人々という気がしてならない。昔よく見られた「市民+メディアvs.政府」の構図から、「市民vs.メディアvs.政府」という構図に変わってきている。または政府とメディアは共同して何かを隠しているのではないかという不安さえある。たぶんその不安の根は記者クラブが省庁にもあり、結局メディアは取材源と仲良くするために取材源にとって悪いことが書けないジレンマがあるからだろう。もちろんそうだ、現在ジャーナリストはサラリーマンだからだ。会社のために不利益になることは難しいし、取引先とは仲良くしないといけない。取材のときは取材源に信頼してもらい、ただその上で客観的に物事を見て判断し記事を書く。これを続けることで報道の自由は守れるが、記者クラブの存在でメディアはあまりに取材源と親密になりすぎて、結局報道の自由をメディア自らが奪っているのではないか。


 信頼、といったがそれは取材源の人生をめちゃくちゃにしてしまわないことで守られる。つまりは取材源の秘匿だ。NHK記者証言拒否事件の最高裁決定の要旨にあるが「報道関係者の取材源は、一般に、みだりに開示されると、報道関係者と取材源となる者との間の信頼関係が損なわれ、将来にわたる自由で円滑な取材活動が妨げられ(中略)る」。これは実際にそうだ。そして理想だ。だが現実は高橋洋一のように官僚を辞めないと内部状況を執筆できなかった人間もおり、なかなか完璧には取材源となる者とマスコミが機能していない部分もある。それを解決できれば社会をより良くしていく方向にいけるのではないかと思っている。


 蛇足的に書くが、2004年、アメリカでラザーゲート疑惑があった。ブロガーたちがCBSテレビで報道された文書の偽造を暴いたという話だ。マスコミが偽造したのか取材源が偽造したのかは定かではないが、とにかくインターネットによる事実の訂正が行われた。こういったネット上での市民ジャーナリストは上記の倫理を義務としてもっていないことが問題だが、彼らは時に社会にとって正しい方向へ動く。だからこのジャーナリズム論という授業は今後義務教育の中に入れるべき科目ではないかと思ったりもする。