リバタリアンってリバタリアンじゃないと思う

リバタリアンって言葉は今年の偉いブロガー間での流行語大賞だと思うのですけど、このリバタリアンのいう各個人の自由を尊重って、不自由を否定していることにもなるのかなぁと思いました。でも否定をしてる時点でそれはリバタリアンじゃないと思うし、矛盾してる。だから本当にリバタリアンたるには「私はリバタリアンである」などという位置づけをしないことなんじゃないだろうか。ただ単純に「人に迷惑かけちゃダメよ」と言う母親や小学校低学年の先生こそが正しいのではないか。
人は結局どこかに所属すると制限されてしまうと思う。意図しなくとも「私はリバタリアンだ」と発言する人間は、それ以外をどこかで否定してしまっている。またはそうじゃない人に「私は否定されている」という印象を持たせてしまう。
それも僕にはどうにもよくわからないけどリバタリアンにもいろいろな種類がいるようである。自然権的?帰結主義的?そんな拘(こだわ)りを持つ必要って、この思想そのものの意味を身につけている人にとってあるのだろうか。僕は無いと思うんだ。
自分をわざわざ何かであると表明するのは、それ以外を否定するときでいいと思う。私は以前「自民党を支持してますよ」という風に書きましたけど、この言葉で言いたかったのは民主党反対ってことなんです。
なんか僕には、自分のことをリバタリアンだと称する人は胡散臭く感じるのだ。